雇用者の誕生

職人のシステムは規模の経済を働かせにくい

職人社会が生み出した生産システムは、機能分化による生産技術の高度化をもたらしました。家内制手工業の誕生です。

しかし、一方で、より低い技術で生産可能な財は「規模拡大によるスケールメリットの増大」が重視されました。そして、生産量が増えてくると財の種類によっては、生産技術よりもむしろ生産設備の方が重要になってきました。

工場制手工業は家内制手工業から工場制機械工業に至る過程で生じた生産形態で、生産手段を有する者が複数の手工業者を集め、同じ職場で分業を行わせ、対価を賃金で支払う手法です。

「非実物経済の職業=金融業」の誕生

中世では民生技術の軍事利用も一般的でした。例えば海外との交易に必要な造船の製造技術は軍事に横展開されました。また、貨幣経済の普及に伴い、お金を貸す職業が誕生します。とくにヨーロッパの中ではイタリアの銀行家が優位に立つことになりました。中世ではキリスト教徒が金利を受け取ることは教皇令で禁止されていましたが、ヴェネツィアの有名な銀行家のメディチ家は、為替レートを利用し両替時に利益を得ていました。

つまり、事実上、利子を得るビジネスモデルを確立することで、銀行業が発展したのです。

この頃から、お金でカタをつける発想が普及、浸透していきます。市民民兵隊から専門家軍人いわば「サラリーマン兵隊」に移行したり、略奪を生業とする放浪集団=異邦人に対してお金を支払う(税収を原資に従軍サービスを購入する)というような動きが見られるようになります。経済活動にかかわる人々は増えていったのです。

契約に基づく労働

近代に入ると、市民革命などの新しい考え方の洗礼をうけた人々の中には、人間はみな自由で平等な存在であるとの意識が浸透し、封建制や身分制は時代遅れのものとなっていきました。農奴は土地から解放され、都市に出て自由に働くことができるようになり、そのことが都市と産業の発展を促しました。農奴も職人も雇用の条件を領主ないし親方と交渉して決めていく発想、すなわち「契約」の観念が芽生えました。

日本の場合は近代社会が始まる明治以降、職人文化が廃れていきました。明治時代における近代的工業生産では、大工場に生産と労働が集約され、ヨーロッパと同様、労働力は囲い込まれていきました。

近代工業の成立とともに、管理者の指揮・命令のもとで働く「雇用関係」が明確化されると、職人は次第にその権限を縮小し、自律した就業者から工場で働く労働者へと変化し、独立の気風も失われていきました。

個々人の技能が重視される中小規模生産の分野では、職人が新しい技術に適応しつつ活躍を続けましたが、今日、その事業の後継者を見いだすことは困難になってきており、「職人魂」の継承も先細っています。