統治のはじまり

軋轢と衝突を避けるための文化と文明

小さな集団が移動をしながら、接触し、離れるといった緩やかな人間関係では、組織を動かす強力なリーダーシップや、人と人との関係を円滑につなげるための社会ルールなどは必ずしも必要ありません。血縁関係による親密なコミュニケーションをベースとした絆が、安定した生活を送ることを容易にするからです。しかし、大きな社会集団が一つ所にとどまり、共同生活を送らざるをえなくなると、当然軋轢や衝突が生まれます。人間が顔と名前を覚えられる人数の限度は、一般に100名程度と言われているので、これを超える集団となったとき、対面コミュニケーション以外の「人間関係維持システム」の考案が求められてきたのでしょう。国家や社会を維持するために現代社会に設けられている法律、道路、上下水道、会社、学校、病院などは、当然、先史時代の終わりころに存在してはいませんが、これらの社会システムが生まれる「ことの起こり」は、このころにあります。

筑波大学名誉教授の西田正規氏は「食料生産をコントロールすることによって、あるいは、大きく効率的な道具の使用によって得られたエネルギーは、しかし、不和や抗争、不安、退屈、人口増加、環境悪化なと、定住社会が抱え込んだ問題を克服するために消費しなければならない。」と述べています。また、彼は遊動生活の機能や動機を、1.安全性・快適性の維持、2.経済的側面、3.社会的側面、4.生理的側面、5.観念的側面5つで整理しています。裏を返せば、遊動を行わなくなったことから、別の仕組みがこれらの機能を代替する必要が生じました。

この「別の仕組み」のことを、私たちは一般に「文明」と呼んでいます。そしてこの統治の仕組みが確立した時、古代文明が誕生しました。

定住することによって消失した5つの機能に代わる社会の仕組みには、例えば法、都市基盤(上下水道、道路などの生活インフラ)、物流・交易(人々が動かないのでものを動かす必要が生じた)などの文明の所産があります。

統治の基本戦略

統治の基本戦略には大きく分けて2つあり、それぞれについてバリエーションが考えられます。したがって、古代文明が生まれて現代に至るまで、様々な手法が試され、実践されてきました。「2つ」とは、外部との軋轢をなくすことと内部の軋轢をなくすことです。前者の戦略としては、①他集団の侵略、②外交力の強化、③相互依存関係の構築、後者には①宗教の浸透、②集団内組織の機能純化(役割の細分化)、③統治方法の非属人化(機械的な統治、個人の対称性を確保)などがあり、それぞれの時代、それぞれの地域において試行錯誤が繰り返されてきました。今でもその過程にあります。

人類が文明を生み出して間もない時期は、外部との軋轢も、内部との軋轢もその解消方法は単純でした。それは各々「他集団の侵略」と「宗教の普及」です。古代文明が誕生した頃の農耕技術は狩猟時代と比べれば生産力は高いですが、今から見ればその水準はさほど高くなく、生産物の余剰は小さかったのです。したがって、「領土を拡大することによる農地の確保」は、増加する人々の食を支えるための有効な戦略の一つとなっていました。領土拡大による農地確保には、さらに労働力(奴隷)確保という副産物もついてきます。

領土の拡大には軍事力が必要となりますが、文明誕生初期の軍事力はどの人間集団でも大した差はなく、戦場の勝敗は、どの程度すぐれた武器や兵士を備えているかではなく、結局のところ食料の入手可能性が決めていました。したがって、領土拡大による農業生産力の増加は土地の収奪可能性を高め、領土拡大がさらに農業生産力を高めるという国土拡大のループが出来上がります。

このことが集団の規模を大きくし古代文明を築く原動力になりました。