第4次産業革命はオフィスから人を消す

「人余り時代」の到来

「働く」とは、本来、 生活に必要なものを得る行為でしたが、近代以降、お金を得る行為とほぼ同義になりました。一方、働く中身は人と対峙するものから、AIやロボット、ITS等のシステムと対峙するものに移行し、リアルな人間社会の関わりとしての仕事はますます少なくなっていくでしょう。

生産性の向上と労働力人口の減少の均衡を保てたとしても、日本人口の減少が遠い未来に止まり、定常化した後(人口減少が止まらなければ日本はなくなってしまうので、ここでは下げ止まることを期待したいと思います。)、労働者余りが発生します。なぜなら、向上している生産性を逆に低下させることは難しいからです。つまり、労働力が安定化する一方、生産性は指数級数的に高まり続ける可能性が高く、その場合、仕事につけない人が増えていきます。

仕事は生産性を高める方向に進化している

これまでの歴史を振り返ってみると、財を効率的に生む方向に「仕事」は変化してきており、今後も技術革新等による生産性の向上は少なくとも一定のスピードで進むでしょう。しかし、一方で人口の減少速度が低下し、いずれは定常化すると考えると、働きたくても働けない社会が到来する可能性があります。

これは、労働に特権性が生じることを意味します。これまでの人類の歴史ではありえなかった状況です。言い換えれば、仕事は特権階級(階級という表現は適切ではないかもしれないですが)のみが行える行為になるということです。万人が労働していた前史時代、奴隷の労働が、一部の特権階級の生活を支えた古代文明、また誰もが働くようになった現代社会。これからも全員参加型の社会が続くだろうと大半の人が考えているに違いありません。しかし、残念ながら生産性の上昇と、これを支える技術(ITC、ロボット、AI)の進歩により、それは難しくなる可能性があります。

供給量は、労働力や資源が投入できれば増やせるものの、作り出した財を購入するだけの人口と支払い能力が減ります。例えば10人で1日に生み出していた商品ないしサービスを1人で1日で生み出せるようになれば、そして10倍の商品やサービスを売り尽くすだけの需要がないなら、10人のうち9人は不要になります。

人余りが生じるメカニズム

もう少し丁寧に考えてみます。

まず国内需要については人口、すなわちマーケットが縮小するため、仮に労働力人口と消費人口が同じ速度で縮めば、労働生産性が高まる分だけ労働力は過剰になります。

一方、海外需要はどうでしょうか。新興国の生活水準が高まることで、輸出が増え、外貨を獲得しやすくなりますが、逆に新興国も経済成長のために輸出を行うでしょう。100年後には世界人口も頭打ちになりますから、超長期的にはどちらにしても国内の労働力は過剰となるでしょう。

お金は「ミーム」

一旦お金が回りだすと、お金の循環自体が自己目的化します。第一段階は、お金ループに関わる人間を増やすことで、お金ループは自分自身の存続を図ろうとします。(ドーキンスが遺伝子に擬人化した表現を用いたのと同様であり、もちろんお金ループそれ自体に意思があるわけではありません。)

この段階は、民主主義と親和性が高いです。女子高生やOLが消費を牽引したバブル期、女性の労働参画、高齢になっても働き続けられる環境の整備、障害者の雇用率の向上、より多くの人々が経済的に自立し、自由に消費したり、働けることは、自己決定の範囲を広げることになり、民主主義の理念と合致しています。

しかし次の段階では両者の折り合いはあまりよくなくなります。お金ループは自身の循環をより強固にする上では、必ずしも参加人数を多くする必要はなく、要は回転するお金の量が増えればよいということに「気づく」ためです。

金融資本主義の到来です。特定の人々が実体経済とは別の世界でお金を循環させていきます。これは消費市場ばかりでなく、労働市場においてもいえることです。労働現場から人を消す作用があるのです。工場制手工業から工場制機械工業への変化は産業革命と呼ばれますが、皮肉な言い方をすれば工場制機械工業から無人工場への変化のほうがむしろ「革命」的と言えます。第4次産業革命はホワイトカラー職場の縮小ないし(かつて工場が無人化したような)無人化をもたらすかもしれません。