移動と文明

かつて人類はすべて遊牧民族だった

文明の発達は定住を必要条件としているようです。今日の世界では遊牧民は全体の1パーセントにも満たず、人類はほほ「定住者」といってよいでしょう。しかし、人類が生まれた頃は逆に住処を固定しない生活様式の方が一般的でした。

人はなぜ、定住を始め、それが定着したのでしょうか。

前史の終わりから有史の始まりのあたりの定住の経緯を簡単に素描してみたいと思います。

遺伝子に組み込まれた遊動の心性

有史以前、人類は自らが生きるフィールドそのものである「自然」から食料を得ていました。植物の採取、狩りによる動物の肉の確保、漁獲などです。その頃の大半の人類は、住まいに食料を持ってくるより、食料の発生地に寝床を合わせる生活パターンを採用していました。猿や類人猿などの他の高等霊長類と同様に、人類は100名以内の血縁を軸とした集団を形成し、一定の地域を日々居住の場を変えながら遊動を行っていました。

人類(ホモ・サピエンス)が誕生してから現在に至る長い歴史から見た時、少なく見積もっても、その9割以上が居場所を固定しない生活であり、人類の身体的、精神的な働きは遊動生活の方が適していると考えるのが自然です。

自然から食料を得るには、また、子孫を作るには、数十人から100人程度の集団を形成し、生計を共にするのが都合が良いです。そこで血縁関係を基礎とする小集団が生活の基本単位となりました。

とどまることを余儀なくされた人類が見つけた解

ホモ・サピエンスは何十万年以上も狩猟採集により食料を確保しつつ、遊動生活を送っていましたが、筑波大学名誉教授の西田正規氏によると、氷河期の寒冷気候が緩みはじめると、温帯森林が中緯度地帯に拡大を始め、旧石器時代における大型獣の狩猟に重点を置いた生活に大きな打撃が与えられました。森林の拡大によって狩猟が不調になれば、植物性食料か魚類への依存を深める以外に生きる道はない、と西田氏は指摘しています。ここに至り、人類は「定住」という新たな生活スタイルが生み出したと推察されます。それを裏付けるように、この時期にヨーロッパ、西アジア、日本など、ユーラシア大陸の各地に最初の定住集落が出現し、やがて農耕や牧畜を行うようになります。

つまり、農耕牧畜を行うために定住を始めたと考えられていますが、実態はその逆です。定住を行うために農耕や牧畜が始まったのです。その証拠に生態系を崩さない程度に狩猟や漁で確保する食物の量をコントロールする知恵を身につけていたかつてのアイヌのように、農耕をせずとも定住を可能にしていた民族も存在します。

必要は発明の母といえます。食料が十分に獲れないなら作ればよい。これが農耕牧畜の起こりと推察されます。進化論的に言えば、移動せずに食物を確保するアイディアを出し、それを実現することのできなかった民族は淘汰されたということになります。

ところで、狩猟、採集という食糧調達の方法を採用する場合、1つの家族が暮らしていくのに1000ヘクタールの土地が必要とされる一方、農耕牧畜なら10ヘクタールの土地で良いと言われています。

人口のビッグバンがはじまる

単位面積当たりの食料確保力が飛躍的に高まったことは、人口が増え始めることで顕在化しつつあった空間制約を解決ないし緩和することにも役立ったと思われます。ただし、人口増加と農耕牧畜の発明との関係は単純な原因と結果の関係では説明がつきません。

新石器時代に人口が増加し、遊動による食料確保の方法では食料が不足する中で、農耕牧畜の発明がなされ、このことで食料生産力が飛躍的に高まり、食料生産量が増加し、人口が増加しました。つまり両者の関係はループを描いているのです。

遊動(移動)を繰り返すことで食(の確保)と住の一致を図ってきた人類が、活動エリアを固定化し、限られた空間から食料を生み出すことに成功すると、生産物を保管する設備が必要になります。また、食料を効率的に生産するためには治水、灌漑といった自然環境の改変が求められ、血縁関係に基づく小集団から、より大きな社会集団になっていきました。保管設備の設置、集団規模の拡大は移動制約を高め、もはや遊動(移動)を行いたくても行えない状況が生じました。

以降、現在に至るまで我々人類は定住によって文明を営むようになっています。

ただし、20万年という人類の長い歴史から見れば定住の期間は高々5%に過ぎません。定住に息苦しさを感じ、「旅行」という行為を行うことでバランスを保とうとします。

いつか、何らかのイノベーションが生まれて、定住せずとも食料確保が可能になった時、遊動生活が息を吹き返すかもしれません。