生産様式の「形式化」が進んだ

封建制と農奴

中世ではローマ帝国の強大な中央権力や統治組織が失われており、地域社会を結び付けていた古い血縁制や部族社会の構造が変容していました。自身の生命・財産の安全の保障を近くの有力者との間の相互扶助関係に求めるようになったのです。封建社会の誕生です。地域規模で農民の保護と支配を確立したさまざまな領主権力が分立していきました。

封建制とは領主が農奴に土地を与えることで保護を行う仕組みで、従士制に起源をもつ家士制と、ローマの恩貸地制の結合との説があります。

中世のヨーロッパは聖職者、労働者(農民や都市民)、商人、軍人(騎士)などの職能に分かれた身分制社会でした。

 手工業者・職人の増加

中世初期の古典荘園制は1112世紀には三圃制度により生産性が向上し、財の流通は増加してきました。また、手工業の発達とともに手工業者・職人も増加しました。財が増えると交易も盛んになります。交易の場は中世の都市であり、11世紀までは都市の行政・司法を掌握していたのは、聖俗の都市領主でしたが、1112世紀になると、複数の集団が自治権を要求するようになり、ギルド(同業組合)が誕生しました。そしてしばしば対立しながらも、ギルドと都市貴族の団体が連携して都市自治をおこなうようになりました。

 軽工業の高度化と多様化

ヨーロッパ中世の農村では荘園制という生産様式によって、領主が農奴を支配しました。農奴は賦役や貢納などの義務を負い、移動は禁止されていました。一方、中世の都市では手工業品の生産力が高まり、多様な生業が広がると、その担い手である職人のバリエーションが広がり、「職業」としての位置づけが明確になってきました。このことは日本の中世においても同様です。職人は自身の技術を磨きながら徐々に活躍の舞台を広げていくこととなります。そして、ものづくりの経験と実績を積み上げ、社会的評価を得ることを通じて仕事に対する誇りや仕事に対する献身的姿勢を高めていきました。

職人の誕生は、より多くの財を生み出します。「機能分離による効率化・専門化」の変化が始動したことを意味します。

 職人社会はスキルで結び付けられた「疑似家族」

親方と弟子という言葉にはそれぞれ「親」と「子」の文字が入り込んでいます。日本では、最初は親が子に技術を伝承するところから始まったのかもしれません。

ギルド内には、親方の下に、職人と徒弟が位置づけられており、徒弟は無給の見習いでした。厳格な身分序列のもと、自由競争は禁止されており、身分制のもとで労働を自由に選ぶことは認められていなかったようです。ただし、職人は道具・小設備を私有し、仕事の仕方に自主裁量権があり、独立の気風を持っていました。

OJTの訓練によって体化された技能は、その職人固有のものとして評価されたのです。

 また、日本の中世では、一人前の職人は、職場が気に入らなければ、転職することもできたといわれています。