日本で広がる利己主義の本質
個人主義と利己主義の違い
結婚行動の抑制(非婚化)や出産行動の抑制(非産化)は、少子化をもたらしていますが、これらの背景には個人を中心に社会生活が組み上げられるようになったこと、つまり「個人主義化」(さらにいえば利己主義)があります。個人の幸せを希求するところを主眼に行動選択(お金の使い方を含め)をした結果として、結婚行動や出産行動が抑制されるということです。
行き過ぎた個人主義による利己主義の浸透は近代社会の先輩である欧米諸国よりもむしろ日本の方が進んでいるようです。欧米の文化的背景をなす個人主義には、「他者の尊重」がありますが、日本人の生活で主流となっている利己主義という価値観には他者への配慮はありません。この価値体系は少子化に拍車をかけるのみならず、政治的無関心、コミュニティの弱体化などの問題ももたらしています。
結婚や出産の価値は高められるか?
少子化の根本には利己主義があるとの仮説がもし正しいならば、保育施策などではなく、この観念を変えることが、出産力を高める有効な取り組みと言えます。
結婚や出産には、安心感が得られる、子ども(子孫)を作れる、好きな人と一緒に居られる、あるいは親を安心させられるといったお金では測れない価値があります。しかし、利己主義やお金信奉がこのような価値を弱める方向に作用しており、逆に、行動の自由が制約される、自由に使えるお金が減るなどのデメリットを助長する役割を果たしています。
利己的意識や行動を抑え込むほど、結婚や出産の価値を高めることは果たして可能なのでしょうか。
ドーキンスの「利己的な遺伝子」
市場経済の発達、利己的な意識の浸透が、私たちに少子化をもたらす行動を促しています。しかし、本来、人は他の生物と同様、遺伝子を残すようプログラムされているはずです。なぜ、遺伝子の思惑通りにならないのでしょうか。結論を申し上げれば、お金信奉や利己主義はミームの一種だからです。
チャールズ・ダーウィンが「種の起源」であきらかにしたのは、進化は環境変化に適応した種が生き残るという、いわゆる「進化論」ですが、この説は個体が自身の生命を投げ打って他者を助ける利他的な行動をとる場合があることをうまく説明できませんでした。そこで出てきたのが進化論の発想を拡張し、生存競争を行っているのは個体ではなくその中の遺伝子である、というリチャード・ドーキンスの唱えた説です。彼に言わせれば、生物の個体は単なる生物機械、ないし「遺伝子の乗り物」(ドーキンス)に過ぎません。この遺伝子淘汰説は、単純な原理でありつつも、生物に見られる進化の現象をうまく説明できる点で優れています。
少子化を遺伝子で説明する
しかし、この説は利他的な行動を説明できても、少子化という社会現象を説明できません。本来、遺伝子は個体の存続と種の保存に寄与するはずですが、今日、先進諸国では種を滅ぼす恐れのある少子化現象が進行しており、遺伝子の作用はうまく機能していないように思われます。
この理由として、「環境に適応した遺伝子が生き残るには一定の時間がかかる(タイムラグがある)ため、あまりに早い環境変化には対応しきれない」という考え方があります。これをさしあたり「タイムラグ説」としておきます。進化にどの程度の期間を要するのかは、生まれてから子どもを産むまでの期間の長さや子どもの数、新しい環境に適応するために必要な表現型の変質の程度などに関係するため、種によって、また、環境変化のハードルの高さによって異なり、一概にはいえないですが、最低でも100世代程度(2000~3000年)は要するのでしょう。近年みられる意味での少子化現象は高々半世紀程度の歴史しかないから、遺伝子が対応しきれていないと考えるのは至極自然です。
ところが、他国の状況は定かではありませんが、少なくとも我が国の場合は、国立社会保障・人口問題研究所の調査結果を踏まえると、希望出生率自体が人口置換水準を下回っており、「不本意ながら」生まないわけではありません。当人たちの希望で少なく生んでいるのです。子どもを産み育てにくい環境が少子化を引き起こしているといわれることがよくありますが、当事者の意思で出生数をコントロールしているのであって、意志と無関係に外部の環境が子どもを産まなくしているわけではないということです。(外部の環境が意思に影響を与えていることは、まず間違いないですが。)
よってタイムラグ説は棄却されます。
少子化ミームの存在可能性
次に浮上するのは「少子化ミーム説」です。
ミームとは文化を作り出す源です。継続的に人々の意識、行動に影響を与え続け、社会の慣習や人々の常識を“創造”します。遺伝子は人間などの生物機械の中に入り込み、延命を志向しているため、未婚や少産は望まないはずです。そのため、人類の歴史が始まってから自分が入り込んでいる個体が結婚したり、子どもを生み育てる行動を選択することを促す感情(母性本能、子どもを愛らしいと思う気持ち、異性への愛情、一人で生涯をすごすことの孤独感や孤立感など。)は開発され、強化されてきました。
結婚や出産を抑制する意識が、このような感情を上回っているのだとしたら、文化としてのミームが働いている可能性があります。つまり、「少子化ミーム説」とは、種よりも個体の存続に影響を与える「ミーム」の中に、少子化を促進する作用を持つものが含まれている可能性を提起するものです。ミームは子孫を増やさなくても、十分な人口=脳の数があれば繁殖は可能だからです。ミームは遺伝子ほど“思慮深く”ありません。ミーム自体に意思があるわけではないので、あくまで比喩として受け取っていただきたいですが。
少し考えればわかることですが、少子化は繁殖の媒体である「脳」の数を減らす方向に働くため、ミームにしても良いはずはありません。それにもかかわらず、少子化ミームが機能するのは繁殖時間とその影響が顕在化するタイミングとのズレに起因しています。ミームが広がるのは数ヶ月から数年間というスパンですが、子どもの数が減ってミーム拡散が抑制されるのは数十年から数百年のスパンです。ミームが戦略を誤ったと気付いた時には遅いわけです。
少子化ミームと「宿主=人類」のどちらが勝つか?
もっとも、仮に少子化ミームが支配する脳を持つ国民が多数を占める国と、その逆の国があるとしたら、前者の国の人口は減り続け、後者の国の人口は増え続けますので、超長期には少子化ミームは駆逐される可能性はあります。
近代社会における「文化」としてのミームの中には、一夫一婦制を当然視する価値意識や、「大人とは、親から独立し、一つの家庭を築き、社会的に自立するものだとする考え」など、結婚し子どもを生み育てる働きと整合的なミームが主流であったとともに、児童福祉政策、家族政策、社会保障制度などの法制度が、この感情を満たしやすいよう、強化してきました。
ところが次第に、少子化ミームが存在感を発揮しだしたのです。少子化を促すミームということで、分かりやすく「少子化ミーム」と申し上げてきましたが、その正体は前節で取り上げた「お金信奉」とこれが生み出した「利己主義」です。両者の観念が、結婚したり、子どもを生まない人生選択に価値を与え、行動に変化を起こさせているのです。
言い換えれば、過去数百年から数千年の間は、「子孫を創り出す文化」としてのミームと通貨システムの間には齟齬がありませんでしたが、あまりに生活の多くの領域に通貨システムが入り込むことで、ここ半世紀あたりから両者の間に齟齬をきたすようになり、不調和をもたらしつつあります。これが「少子化」という現象の本質です。
「通貨システム」とは、お金を稼ぎ、消費や貯蓄を行い生活する一種の人生ゲームであり、このゲームの参加者として勝者を目指すには、男性の場合、自分以外の人間の生活を維持する「お金」を得ることができなければ、いっそ自分自身の使用できる「お金」を最大化する行動を選択するのが賢いと言えます。また、女性の場合、自分よりも低い収入の男性と一緒になれば、一人で生活した場合に消費できる「お金」が減少するため、それならいっそ単身の方が望ましい選択となります。既存調査によると、未婚者が結婚できない理由として、「適当な相手に巡り会わない」との回答が多いですが、とくに男性の場合は自分の収入だけで家族を養えると感じない、女性の場合は自分の収入よりも高い収入の男性でないと結婚を望まない傾向が見られ、お金の保有と利用を最大化する行動原理が少子化を引き起こしていることが窺えます。
「少子化」に変わる新たな文化としてのミームを広める
つまり、「お金」の増殖ゲームと整合的なのは少子化ミームの方であり、遺伝子をつなぐ上で有効となる「生物機械」(配偶者)が見つからない時、無理して結婚はしなくなります。
結婚した後、子どもを生む場合も同様です。生み育てる子どもの数が多ければ多いほど、自分自身が使用できる「お金」が(一般に、女性の場合は自分自身が稼げる「お金」も)少なくなる可能性があるから、子どもを生まないか、少なく生む選択を行うようになります。
その他、より多くのお金を得る能力を子どもに身につけさせる「教育」、家計単位としての「家族」、お金を媒介して生活を成り立たせる「消費」などのサブミームによって、互いが他を強化しあう方法でお金信奉ミーム群の寿命を延伸させているように思われます。
したがって、少子化を抑えるには、通貨システムと整合的な少子化対策を行うか、「お金信奉」や「利己主義」のミームを打ち消すような新たな文化を広めるかのどちらかの戦略が必要と言えます。
前者の例ではフランスのN分N乗方式があります。より強烈な施策としては独身税が考えられます。前者の方が実現性は高いですが、子どもの数を増やすインセンティブを効果的に打ち出すには、人員の多い世帯とそうでない世帯との間の税額の差を十分に大きくする必要があります。財政負担を増やさないで済みますが、一部の国民は負担が増えるので、国民の合意を得る上のハードルはきわめて高く、実現は難しいと思われます。
個を成り立たせる基盤の崩壊
もう一つの選択肢である、新たなミーム(=新たな文化)を普及することはさらに難しいと思いますが、少子化問題の解決ばかりでない効果が期待できる点で、実現をめざす価値があります。自殺率の低下や幸福感の向上に寄与すると思われるからです。
日本以外で深刻な少子化が起きている国に韓国があります。どちらの国もまた自殺率が高いという特徴も持っています。
2003年に1年間の自殺者数が3万4427人となったのをピークに中高年・高齢者層の自殺者は減少に転じる一方、10~30代の思春期・若年成人の自殺者は2011年まで増加を続けてきました。増加は収まったものの、人口当たりの自殺率は、依然として他国に比べ高い水準です。
自殺とは自分の命の重さを軽視する意識、すなわち自尊心の低さと関係していますが、利己主義と自尊心とはどのような関係にあるのでしょうか。
1991年にバブルが崩壊し、1990年代に入ると生活満足度は低下してきました。1994年には、名目成長率が実質成長率を下回る、つまりデフレという現象が生じました。
この時期、すなわち1990年代後半から2000年代初頭は、特異な少年犯罪が目立った時期でもあります。実はそれに先立つ、1980年代に個性の教育が始まりました。「個性の時代」がうたわれたのです。「個性的な存在であることを最優先の課題とする人々にとっては、善悪の基準など副次的な物差しにすぎない。」、「他者との比較を前提としない内閉的な個性を求めているのでは」、「その強迫的な不安を和らげるために、周囲の身近な人間からの絶えざる自己承認を必要とする」と筑波大学人文社会系教授の土井隆義氏は指摘しています。
冒頭に述べたように、近代的主体=自律して存在する自己という概念が個人主義を生み出し、個人主義が利己主義を生み出しました。
個性を持たなくてはならないという強迫観念が利己的な行動を助長する一方、ありのままの自分を認められず、人とは違うアイデンティティを自覚できていない「自分」を受け入れられないといった意識が、自分自身を軽んじることにつながっている気がします。
個人に切り分けられた現代社会で個性ある自己を確認したくて、他者との関係を誤った形で切り結んだ結果が「親父狩り」であったり、「いじめ」であったり、といった外的な方向に進む場合もあります。個人を世界の中心に据える個人主義の観念が行きすぎた自我の暴走を促したのでしょう。