古代ローマの栄枯盛衰

古代ローマの特殊性

古代ギリシャ文明の遺産を継いで、いまのヨーロッパのエリアに広大な帝国を築き上げたのが古代ローマ帝国です。紀元前753年にロムルスがローマを建国してから、紀元476年に滅亡するまでの長い歴史の中で、統治の仕組みは変化していきます。とはいうものの、建国時の統治理念は不変でした。侵略した民族をローマ市民として取り込む同化政策です。1000年もの間、国を維持できた秘訣といえるでしょう。
ローマ帝国以外の大部分の国は、他の集団を攻めた後、殺戮するか、奴隷にするかのほぼ二択でした。しかしこの殺戮は「恨み」や「憎しみ」を生み、新たな戦争を引き起こし、止むことはありませんし、奴隷にすると国の内部に非市民を作ることになり、そのウエイトが高まってくると、国内部が不安定となり、不満分子が生まれる可能性も高まります。前者は外部に敵を、後者は内部に波乱要因を作り出し、いずれにせよ、安定した統治を阻害します。

古代ローマ帝国による統治がなぜ長く続いたのか?

一方、ローマの統治ポリシーは「市民権の拡大」です。ユリウス・カエサルのガリア人(指導者を含め)へのローマ市民権の付与に始まり、カラカラ帝における帝国内部に住む自由民全員への市民権の付与に至るまで、このことは徹底しています。歴史作家の塩野七生氏は「ここ(カラカラ帝の時代)に至って、「征服者」と「被征服者」の区別は完全に消滅した」(「ローマから日本が見える」塩野七生、2008年)と述べています。
その結果、長い期間、帝国の統治が続いたのです。
それでも、古代ローマ帝国が崩壊したのは、外部の敵がいなくなることで、国内の結束力を保つ動機が弱まったこと、兵士の支配力が低下したことなどが挙げられます。

「拡大」にはいつか終わりが来る

ローマ帝国内の全住人がローマ市民になった後、市民になりたくて兵役を送っていた属州の住民は兵隊になりたがらなくなり、すでにその時点では元のローマ市民の兵役義務はなく、職業軍人、すなわち傭兵が軍事力を支えるようになっていました。しかも、潜在的な敵である帝国外の蛮族を取り込んだため、国家を守るという意識は希薄になっていきました。
また、遠征による領土拡大が終わり、領土維持の段階に入ったため、奴隷の調達はなくなり、奴隷も平民になっていったため、今度は平民間での、経済格差が大きくなっていきました。領土拡大によるフロンティアの消滅が帝国内を不安定化させ、ローマ帝国を終わらせたことは資本主義の限界(市場拡大や利子の増加を前提にシステムが作られていること。外部にフロンティアがなくなった時にシステムが機能不全に陥る。)に通じるところがあります。
これに度重なる蛮族の侵攻をうけ、西ローマ帝国は崩壊しました。そして「中世」が到来します。