かつて「神」と「自然」は未分離だった
統治者の特性
原始宗教が誕生した頃の社会では、自然と神はまだ概念として未分離の状態であり、神は人間に対して恵みをもたらすとともに、災難をももたらす存在として捉えられていた事例が多いです。そのため、神官や巫女は「神=自然」の意図を汲み取りつつ、それが人々に与える幸福を高めるとともに、被害については最小限抑えるよう、統治者が治水等の自然への“物理的な働きかけ”と、宗教という自然への“精神的な働きかけ”を行いました。両者の手段は違えども目的は同じと言えます。
さらに、当時の人々にとって、周辺に住む異なる人間社会もまた、「自然」と同様、外的要素であり、いつ自集団に攻撃を仕掛けてくるか読めない「脅威」であるとともに、収奪することで食料や奴隷を確保できる「恵み」でもあるという二面性を持っていました。
王権神授説の源流
当時の社会集団にとっての外部の脅威は自然と他の人間集団の二つです。それらはいつ自分たちの生活に大きなダメージを及ぼすかわからないリスク要因という意味では同等であり、一方、これらは収奪することで自集団を豊かにしうる外部資源であるという意味でも同等の価値を有していたと推測できます。自然を改良し、より効率的に収穫するのも、他の集団を襲い、略奪するのも、資源を確保するという点では同じであったことから、両者は今ほど区別しては捉えられていなかった可能性があります。言葉を変えれば、自然に対峙(灌漑などの土地改良)するのと人と対峙(戦争)することとの違いは、文明の初期段階はさして大きくなかったと思われます。どちらにしても、その集団の存続を脅かす恐れと、逆に上手く使えば便益をもたらすもの、ということです。
そう考えれば、文明の初期段階に、宗教(神)と政治(王)が一体的であったことの説明がつきます。(なお、この思想は王権は神から付与されたものであるとする、近世の王権神授説に引き継がれます。)
エジプト文明は余剰を生み出さなかった
エジプト文明はやや異質です。ピラミッドなどの巨大建造物やミイラなどに代表されるとおり、死後の世界に英知が寄せられ、他の古代文明と比べると生活水準の向上への寄与は少なかったです。このことが、エジプト文明の所産がその後の文明にはつながらなかった原因と考える歴史学者もいます。それでも長期間続いたのは、変化が緩慢だったからか、外界が砂漠で遮断されていたからでしょうか。一般に余剰が文明を次のステップに移らせるのですが、エジプトの場合は、“現世の余剰”、すなわち生活を豊かにするための知恵を十分に蓄積しなかったので引き継ぐものも少なかったとも解釈できます。