「奴隷」という職業
機能分離が創り出す強制労働
古代文明における「機能分離による効率化」の例としては、「奴隷労働」があげられます。今日の社会における職業は自己選択によるため、「奴隷」を職業の一つと捉えることに違和感を覚える人は少なくないと思いますし、そのように捉えることはおそらく適切ではないでしょう。ただし、人間が協働して社会全体で富を生み出す際に、特定の役割を持ったグループとして捉えることはできると思います。
古代ギリシャでは、奴隷をどれだけ多く養えるかが市民としての評価につながっていたと言われています。市民は一般に2~3名の奴隷を所有し、手工業の仕事や、鉱山の採掘などを行ったようです。
古代ローマの奴隷と現代の賃金労働者はあまり変わらない?
本人の意思を無視した労働の強制は許されるものでないことはいうまでもありませんが、現代人がイメージしているような非人道的な扱いばかりではなく(そもそも人権概念がなかった時代に奴隷の是非を評価することはとても難しいです。)、教育や医療は奴隷の職業であり、高い報酬を得ていたとの説もあります。古代ローマも同様で「社会悪」として奴隷制が存在していました。ローマの奴隷の多くは賃金を受け取っており、中には財をなしてみずからの自由を買い取った者もいたようです。
必ずしも劣悪な労働環境に置かれていた奴隷ばかりではないことを考慮すると、市民と奴隷の関係は今日の社会における経営者と従業員との関係に近かったとする人もいます。
ただし、市民は奴隷の衣食住に責任を持たなければなりませんし、本人の意思を無視した労働は管理コストの増大を招きますから、奴隷制による生産活動は必ずしも効率的とはいえません。ヨーロッパでは次第に奴隷制は農奴制へと形を変えていきます。
奴隷から農奴へ
なお、日本の農業は耕作面積が小さく、大規模農業に発展することはなく、奴隷制が広がる素地はありませんでした。スケールメリットを生かすのが難しかったのです。強力な中央集権国家とならなかった背景事情のひとつに、この点があるかもしれません。
古代ローマに時代が移ると、戦争で領土を広げることでより多くの奴隷を確保することとなり、奴隷労働を活用して広大な土地の耕作を行うようになりました。しかし、帝国の領土の拡大が落ち着くと、奴隷の供給量が減少し、価格が上昇しました。その結果、大土地所有者=領主は、奴隷に変わって没落農民を小作人として雇い入れ、農奴として活用しました。農奴は領主から土地を割り当てられて、耕作のほか家畜を飼ったり、機織をするなどをして生活していました。他の土地に移動する自由はなかったものの、それでも奴隷に比べれば諸権利を持った存在でした。