「働きがい」の危機

賃金上昇が期待できない時代

近代に「賃金労働」が誕生し、労働の主目的が「収入確保」となって数世紀が経ちました。日本においても戦後まもなくは主流であった自営業の割合は高度経済成長期を経て小さくなり、今や労働者と言えば賃金労働者を意味するようになったといえます。

しかし、その賃金は10年以上にわたり、堅調な上昇は見られません。ここ数年、景気の拡大や人手不足を背景に上昇の機運が見られますが、どの程度持続するかは分かりません。賃金労働者にとって、賃金の多寡は就業意欲に大きな影響を及ぼします。賃金が上がらない、あるいは上がることが期待できない場合、働く意欲にはマイナスに働くことが数々の研究成果で示されています。生産性の低下や新たなサービスの創出にマイナスに働く恐れもあります。人口減少が国内市場の縮小をもたらし、内需型産業の成長を阻害しています。人口が減るばかりでなく、消費意欲の高い世代であるファミリー層(耐久消費財の需要が一般に高い等)のウエイトが減り、逆に、消費意欲が低い世代である高齢層のウエイトが増していることもこれに拍車をかけています。市場が小さくなる局面では、スケールメリット(規模の経済)ならぬ、スケールダウンデメリットが働き、よほどの生産性向上を図れないと利益を高めることは難しく、結果として賃金の横ばいないし低下をもたらします。これは個人と国家の双方にとって由々しき事態です。

私たちは未来の働き方にどんな希望を持てばよいのでしょう。

 職場内の「逆ピラミッド化」が構造的な不活性を生み出している

慶応大学特任教授の高橋俊介氏は、仕事観の構造化を行い、内因的仕事観、功利的仕事観、規範的仕事観の3つに大別しています。お金を得ることは功利的仕事観のうちの成功獲得手段の一つに過ぎません。わが国の人口ピラミッドが逆ピラミッドになるのと同様、どの企業組織でも社員構成は逆ピラミッドとなるため、年功序列の賃金体系を維持しようとすると、総人件費があがってしまいます。すでに10年前と比べ賃金体系はフラット化してきていますが、今後はさらに進み、年齢や入社年齢をそのまま処遇に反映するようなことはなくなると予想されます。

こうなると、働き続けても給与は増える保証はなく、成果と連動した処遇になればなるほど、年配者のモチベーションを低下させます。若手社員にとっては、活躍のチャンスが出てくる点はよいのですが、毎年、安定的な給与水準を確保できる保証がないのは年配社員と同じなので、子育てや教育にかかる支出や住宅ローン返済といった、長期の支出を生じさせる生活行動を抑制させます。つまり、子どもを生んだり、住宅を購入したりといった家族形成にマイナスの影響を与える恐れがあります。

年功的な処遇の要素が弱まってくれば、若手社員が高いポストにつける可能性は高まってきますが、労働人口の高年齢化により、若手の昇進を数多くの年配社員が阻む構図はますます強まるでしょう。「給与もポストも上がっていくもの」との観念が現実にそぐわないことが分かってくると、若手社員にとっては「お金を得ること」を働く意義の中心に据え続けることは厳しくなります。

そのため今後、働く側は何とか経済的な価値ではない仕事の価値を見出そうとするし、企業の側も雇用者に賃金で応えられない部分を提供し、雇用者をつなぎとめる必要に迫られるに違いありません。

これは労働の意味が変化するきっかけとなりえます。

 働く意味は多様である

市場経済が浸透する以前の「仕事」とは、まさに「生きること」そのものでした。例えば封建社会では、地域に自分の居場所を持ち、領主との関係を維持することは、働くのと不可分の行為でした。

欧州における中世のギルドは、職人たちにとって「働く場」というより、「生きる場」に近かったのではないでしょうか。そこでは職業教育もなされ、どのギルドに帰属するかは生活全般に大きな影響を与えていました。

ところが市場経済が浸透するにつれ、労働は労働者が市場に提供する「商品」としての側面が強まり、お金を得ることが働く目的となってきました。しかし、先の表に示す通り、仕事の意味は本来、多様であり、ときに内因的仕事観は人生の価値とも重なる深い意味を持っています。

働くことの原動力を「収入を得る」という経済的な目的のみに還元するのが難しいこれからの時代には、働く意味を再定義する必要が出てきている気がします。

仮に働く(レイバーではなく、ワーク)とは、生活のために必要なものを得ること、と定義すれば、極論するなら健康維持、例えばジョギングのような非経済活動もワークの一部となります。